日本酒を嗜むわたしと気分変調症(~診断編の後半~)
2021/12/18土曜日のわたし
昨夜は大好きな人と大切な時間を共有できて本当に幸せでした♪
美味しい日本酒と海鮮のコースで大満足~~
食べ納めのサンマがジューシーで肉厚で最高でした!
ミニいくら丼も歯ごたえバッチリで美味しすぎて泣けました(´;ω;`)
お食事とのペアリングでお店の方が日本酒を選んで持ってきてくれるんですが、私の大好きな楽器正宗がきたときは、嬉しくてついついお店の人と「楽器、おいしいですよね~♪」と口を揃えて言ってしまいました笑
写真を撮り忘れてしまったのですが、「而今(じこん)」のにごり酒を初めて頂いて、これは楽器を超えてしまうかと思われるほど、美味しかったです。
このお店ではちゃんとチェイサーもしっかり常備しておいてくれるので、お酒と同じ量のお水を飲みながらで、ベロベロになることもありません。
あっ、でも隣の席の若いカップルの女の子が後半、潰れて寝てました( ;∀;)
日本酒って美味しくて飲み過ぎちゃうと、後からきますもんね。
それにしても私の写真のセンスどうにかしたい苦笑
いい感じに酔って、外に出ると・・・雪!?みぞれ混じりみたいなのが降っていて、寒かったけどちょっとテンション上がりました。
きちんと終電で帰宅し、寝ましたが。
やっぱりお酒のせいで熟睡できず、朝6:00くらいに目覚めました!
ベランダから朝焼けが見えたのでパシャリ。いつも寝坊気味の私からするとレアな写真です。
もちろん、二度寝しました笑
10:00頃目覚めましたが、全然お布団から出られず、ひたすらYouTube見て、気づくと13:00近くになっていたので、さすがにご飯食べよ、と思って起きました。
今日写真多いね。
さてさて、今日は割と時間あるので、診断編の後半を書いていこうと思います。
小学生の頃は、そこまではっきりとした感情の記憶が多くないのですが、なんとなく居場所がないような、ありのままの自分で居てはいけないような感覚だったような気がします。
家庭内では、両親の夫婦喧嘩が多かったと思います。
転校してから、田舎に馴染めない母のストレスが膨らみ、余計に喧嘩が増えたような気はします。
また、母から祖母(姑)の愚痴をよく聞かされていました。
3歳下の妹もいつ母が出て行ってしまうのか毎日不安で、寝るときに階下から母が動く音(台所の音やリビングの椅子を引く音)などが聞こえると安心して眠れたと言っていました。
私は、どちらかというとマイペースで頭の回転は普通か遅い方だったと思います。
父からよく「トロいな!」と言われていた記憶があります。
だから、なんとなく焦ってやらなきゃ、と思っていました。
テストの点数が悪かったり、学校の提出物を忘れてしまったりすると両親からこっぴどく叱られて、叩かれたり、蹴られたりしていました。
私の中では、昭和生まれの親子はこんなこと日常茶飯事だと思うのですが、いかがでしょう。(;´・ω・)
小学生の私にとって、両親はとても怖い存在でした。
両親を満足させるように、機嫌を損ねないように振る舞うことが1番大切なことでした。
(時々は子供ながらのワガママや甘えを言っていたこともあると思います。もちろんとても怒られましたが・・・。)
「言うことを聞きなさい。」が両親の口癖だったと思います。
少しでも褒められるように、ポカをしないように。
そんな気持ちで過ごしていた記憶が強いです。
今思えば、かなり自己肯定感の低い子供だったのではないかな、と思います。
学校でも、クラスのリーダー格の女の子(Bちゃん)に金魚のフンみたいにくっついているポジションでした。
Bちゃんを怒らせないように顔色をうかがっていた気がします。
休み時間も放課後もBちゃんの言う通りに過ごしていました。
明らかに上下関係があったと思います。
その子も家庭内で少々問題があったようで、1学年上のお姉さんがとても優秀だったので、常に比べられていたようです。おうちで居場所がなかったんだと思います。
そこで、私のことを思い通りにコントロールすることでストレスを発散していたのではないかな、と思っています。
前回の記事で、私は図書室に逃げ道を作っていたといいましたが、もう一つ熱中できるものがありました。
それはピアノです♪
最初はクラシックを基礎練習で習いましたが、私はJ-popやJazzを弾くのが好きで、先生は自由に選曲させてくれました。
それがとても嬉しかったし、練習も楽しくて、「ピアノのセンスあるよね」と褒めてくれる先生に会うのも楽しみでした。
(厳しめの先生でしたが、そのおかげで上達することができました。)
小学2年生頃~小学校卒業まで習わせてもらいました。
中学生になって不調が出てきたのは、図書室(司書さん)とピアノがなくなったからではないかな、という気がしています。
というのも、部活や勉強の両立のため、本を借りるなんてこと頭になくなってしまいましたし、ピアノ練習の時間もなくなってしまったので、泣く泣く辞めることになりました。
中学に入学すると、部活に強制的に入部しなければならないというルールがありました。
しかも選択肢は3つ。「バスケ部」・「バレー部」・「テニス部」のみ。
私は、当時、自主的に考えることのできない子供だったので、Bちゃんが小学生の頃からミニバスをやっていた流れで、なんの疑いもなく「バスケ部」に一緒に入ることになりました。
過疎地の中学だったので、同学年は3人でした。
私、Bちゃん、Cちゃん。
Cちゃんはバスケ未経験でしたが、学校対抗の中距離走の選抜選手で運動神経のいい子でした。
そして、Bちゃんはずっとバスケをやっているので、学年リーダーとなりました。
上級生が引退した後はBちゃんが部長になりました。
Cちゃんと私は家が近かったので、毎朝一緒に登校していました。
割と仲良くしていたと思います。
それをBちゃんが面白くないと思っていて、3人でいる時に私を思いきりバカにしたり、Cちゃんに私の悪口を言ったり、なんとか私たちの仲を裂こうとしていたな、と思います。
幸い、Cちゃんは、あまり影響されることなく、どっちにも肩入れすることなく、気にしていなさそうでした。
私といえば、そこまで運動神経がいい方でもないので、練習はきついし、試合では活躍どころかミス連発で顧問の先生にも怒られてばかり。
部活の時間は常に過緊張で、余計に動きが縮こまっていました。
また、小柄な方で150cmに満たない身長だったので、後輩も含めて部内で1番小さかったし、余計に周りと比べてコンプレックスを抱えていました。
小学生の頃はなんとも思っていなかったのですが、徐々にBちゃんと一緒にいるのも苦痛になってきました。
そしてきっかけが本当に分からないのですが、ある日、クラスで集団シカトをされました。
クラス中から無視されました。それはBちゃんが主導していたようです。
(確か数日もすれば終わったと思いますが、その時の記憶がほとんどありません。)
そんな時から、特に部活がある日にあの腰痛が発症したのです。
腰痛が緩和されるときもありました。
実は、クラスには音楽話ができる仲間や文化部のない中学に「English部」なるものを立ち上げた子がいたりして、私はそこから刺激を受けていました。
音楽の話が合う仲間とはCDや雑誌を貸し合ったり、映画を見に行ったり、カルチャーを共有しあえる青春を過ごしました。
「English部」を立ち上げた子は、小学校6年生の時に東京から転校してきた子でした。
私は、すぐさま友達になって仲良くしていました。
彼女は運動部しかない中学に違和感を感じ、自ら得意な英語を部活にしたいと言って、アメリカ人のALT=Assistant Language Teacherに頼み込んで、顧問になってもらい、活動をしていました。
私も何度かバスケ部をさぼって、「English部」に遊びに行ったことがあります。
とても楽しかったのを覚えています。(ちなみに私は5歳から中学卒業まで英会話教室に通っており、英語はクラスの中でもできた方だと思います。)
ALTの先生にバスケ部を辞めて「English部」に入部しないか、と誘われましたが、私はそれがなんだか悪いことのような気がして断ってしまいました。
とてもそんな勇気がなかったです。
そして、当時の私には自分の好きなことや得意なことをやっていいんだ、という考えが一切なかったのです。
苦しいことや辛いこと、嫌なことや不得意なことを敢えてやらなければならない、それが当たり前すぎて、それが「違う」ことを分かっていなかったのです。
長くなってしまいました・・・。
後半なので、ここでまとめようと思いますが。
メンタル🌰ニックに話を戻します。
ひとしきりお話しして、ドクターはお薬を処方してくれました。
・サインバルタカプセル
⇒憂うつな気分を和らげ、やる気がなくなる、不安といった症状を改善します。
・ルネスタ錠
⇒睡眠薬
・アルプラゾラム錠(とん服:不安時)
⇒抗不安薬
この3つをまずは飲んでみることになりました。
そして、カウンセリングの予約もしました。(8,000円/45分)
これで何か私の世界が変わっていければいいな、と静かに思いました・・・。
続きはまた次回以降に♪
今夜から明日にかけてとても冷え込むみたいなので、暖かくしてお過ごしください★
Have a good day!